シルクロード横断

2010年07月26日

2004.5.17 天水市(中国甘粛省)

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「住宿」と呼ばれる安宿は10元で泊まれました。トイレやシャワーは無く、案内されたのがココ。上のタオルが体用で、下のタオルが足用で、白いカタマリは石鹸です。どんな田舎の不潔な宿でも、体と足の区別はとにかく厳しく、よく怒られました。・・・文化ですね。

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2010年07月13日

2004.5.17 天水市(中国甘粛省)再び

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過積載シリーズ。ちゃんと運転してるはずですが、運転手は見えません。

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収穫物の運搬なので流れは一方向。立ち往生は見かけませんでした。うまくできていますね。


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2010年06月15日

2004.5.17 天水市(中国甘粛省)

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この国には「過積載」という言葉が無いのか?
狭い道で対向車が同じようなトラックだとすれ違えない(何度か目撃)
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2010年06月10日

2004.5.16 宝鶏市(中国陝西省)

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高速道路に入り込んだ。日影がなく、昼寝する場所に苦労した

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2010年06月06日

2004.5.15 終南鎮(中国陝西省)

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西安を出た日に泊まった10元宿。かなりビビったが今思えばマシなほう?
夕食時に激しい砂嵐が来て驚いた

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2010年06月02日

2004.5.14 兵馬俑(中国陝西省)

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行きの乗り合いバスで隣に座ったアニメオタクの青年が吐いたゲロが忘れられない
いきなりバスの床に吐くなんて・・・


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2010年05月31日

2004.5.12 咸陽郊外(中国陝西省)

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空港ホテルから出発したが迷ってしまった。走行初日なので心細い


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2010年05月26日

2004.5.11 西安咸陽国際空港

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中国東方航空に分解せず持ち込み。税関には「ちょっとその辺を走るだけです」

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2009年07月09日

ウイグル暴動に思うこと その2

カシュガル8カシュガル9カシュガル10
 カシュガルでは再開発が進んでいました。再開発と言えば聞こえは良いですが、実際は昔ながらの迷路のような街並みが「抵抗勢力」に有利ということで、大きな広場を建設し、鉄道を敷き、道路を整備して有事に備えるという要素もあると思われます。区都ウルムチからはるか南にあるカシュガルでも、漢族の比率は 高まってきています。
カシュガル11カシュガル郊外
 私が飯をお世話になった漢族の出稼ぎ労働者たちも、遠方から来た人が多く、そのまま戻らず定着する人もいるようでした。「懲役」で働 いていると労働者から直接聞かされたりもしました。 田舎では人口のほとんどをウイグル人が占めますが、少数の漢族はそこで商売をしており、その人たちはウイグル人とも仲良くやっていましたが、例外中の例外でしょう。
クチャ1クチャ2トルファン郊外
 自転車で旅した地域が紛争で荒れるのは、とても心が痛みます。

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2009年07月08日

ウイグル暴動に思うこと その1

アクス郊外アハラ郊外カシュガル1
 またしても暴動が起きてしまいました。以前にも書きましたが、ウイグル族と漢族とは仲が悪く、2004年に私が走った頃も、うまく融和しているようには見えませんでした。漢族はウルムチなど大都市に多く、郊外の村にはほとんどいません。田舎だとウイグルと仲良くしている漢族もごくまれに居ましたが、これは例外中の例外です。たしかに、言葉、顔立ち、宗教、生活習慣など異なることばかりで、ウイグル人はウイグル時間、漢族は北京時間で生活し、同じ場所にいながら2時間の時差があるほどでした。
カシュガル2カシュガル3カシュガル4
 問題を大きくしているのは国内メディアの対応でしょう。政府の管理下にあるメディアを通じて、人々は情報を得ています。政策の根幹は「漢化」つまり漢族の人口比率を高めることにあり、本当の意味で自治区が「自治」されることはありません。重要なポストは漢族が占めています。
カシュガル5カシュガル6カシュガル7
 ウイグル人など少数民族が都市部に出ても貧困から抜け出せず、犯罪に走るケースも確かにあるはずです。しかし、漢族が犯罪を犯さないわけでもないし、正確な統計が出されない現状で、ウイグル人の犯罪を重点的に取り上げれば、当然、漢族の反ウイグル感情は増幅されます。報道の公平性が求められています。報道や教育の影響という点では中国人の反日感情にも通じる点がありますね。


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2009年03月07日

西安以来の再会

 2004年5月11日、西安空港で自転車を一緒に組み立ててくれた一人のバックパッカーがいました。彼は西安で航空券を買って敦煌へ飛ぶと言っていましたが、私が敦煌に着いたのは1ヵ月後。再会することはありませんでした。しかし、帰国後にメールで連絡を取り合うようになり、先日、5年弱ぶりに再会し、一緒に食事をしました。「あの後10000km走ってローマに着きました」と言ったら笑っていました。当時の私は不安でいっぱいで、あの時の心境を思い出したら懐かしくなりました。出会いに感謝です。

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2009年02月08日

ドル払い強制: トルクメニスタンで

トルクメニスタンの高級ホテル さあ、算数の時間です。2004年夏のトルクメニスタンの場合、公定レートは1ドル=5600マナト、実勢レート(闇レート)では1ドル =24800マナトでしたね。私がネビトダグで泊まった(というか泊まらされた)ホテルネビチは、何と1泊100ドルもしました。
公定レートを使って表示する義務があるため、宿泊料金は「100ドルまたは56万マナト」です。町で闇両替して入手したマナトで支払えば、実質、560000÷24800=23ドルで済みます。
 しかし、このホテルでは外国人はドルで支払うという決まりがあります。世の中、甘くありません。これは外国人料金みたいなものでしょうか。ただし、現地人は給料をマナトでもらっているのですが・・・。


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2009年02月06日

闇両替: トルクメニスタンの場合

トルクメニスタンの市場 今日は闇両替について書きます。サイクリストは国境を越えてから大都市に着くまで日数を要するケースがあり、バックパッカーに比べて両替の点で不利です。闇両替について知っておくのは有用だと思います。それに、日本では体験できない話はやはり面白い。海外のニュースを理解するのにも役立ちます。
 具体例を出した方が分かりやすいので、2004年夏のトルクメニスタンでの経験を書きます。この国は独裁体制で、政府により1ドル=5600マナトと決められていました。これが公定レートです。しかし、実際にはマナトにそこまでの価値はありません。民衆の間では大体1ドル =24800マナトで取り引きされていました。これを実勢レートとか闇レートと言います。なぜ闇(ヤミ)なのかといえば、違法行為だからです。トルクメニスタンでは市場を私服警官が巡回していて、私はガイドに導かれて、とある肉屋へ入り、闇両替をしてドルをマナトに換えました。マナトは肉を包む紙にくるまれて渡されました。怪しいですねえ。お釣りの半端はスニッカーズ(チョコレートバー)で調整していました。
 例えば100ドルを銀行で両替すると100×5600=56万マナトになります。ところが、闇両替すると100×24800=248万マナトになるのです。レストランなどでドルの値段が書いてある場合は、公定レートで計算するため、例えば16800マナトの料理は16800÷5600=3ドルと表示されます。あらかじめ闇両替してからマナトで支払えば、16800÷24800=0.68ドル(68セント)しか使わない計算になります。闇両替してから現地通貨で支払えば得するのです。
 自国の通貨が信頼できないので、国民は財産をドルの現金にして保管する場合が多いようです。それは警官など公務員でも同じでしょう。この国はドルを印刷しませんから、ぼろぼろになったドル紙幣が国内を流通しています。公定レートで計算した金額で、ドル払いを強制されると、割高な支払いになりますが、これは外国人料金というテーマで別に書きます。

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2009年02月02日

竹馬でギネス記録達成

竹馬記録保持者の家族 2004年のシルクロード横断途中、中国の新疆ウイグル自治区で、一人のウイグル人に出会いました。彼の名はSamat Imin(写真後列左)。24時間ずっと竹馬から一度も下りずに過ごし、ギネスブックに載ったスゴイ人です。私は彼の家に遊びに行きましたが、疲れて寝込んでしまいました。彼の家族は皆、夜中に私が起き出すまで、夕飯を食べずに待っていてくれました。あの心遣いには感動した!
 そんなSamatから久しぶりにメールが届きました。今年、日本で何か記録に挑戦するそうです。ひょっとしたら再会できるかもしれない。今から楽しみです。そういえば彼は「北京からウルムチまで5000kmを竹馬で行く」と言っていたけれど、あれはどうなったんだろう?



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2008年08月22日

中国のテロ(漢族とウイグル族)その2

 都市部では漢族とウイグル族が共存しているわけですが、決して仲はよくありません。2004年時点でも、漢とウイグルはバスで並んで座らない、決して結婚しないなどと双方から言われました。ウイグル語はトルコ系で、ウイグル人はイスラム教徒、顔立ちは西洋人に少し近いです。日本人である私は見かけが漢族に似ているため、最初は冷たくされましたが、「メン・ヤップン・リッケ(私は日本人です)」とウイグル語で挨拶すると相手の態度が優しくなり、物の値段も下がりました。ドライブインの食堂では、私の脇で食べている漢族のツアー客が私の倍以上の額を請求されるなど日常茶飯事でした。このような背景があり、以前から火種はあったのです。しかし、漢民族の人口比率を上げる「漢化政策」は着実に進んでおり、中国政治の凄さを感じます。このままでは新疆(ウイグル人にとっては東トルキスタン)は漢族に飲み込まれてしまう、そんな危機感がウイグル人にはあるのでしょう。
 しかしそのような背景があるとしても、テロという暴力的行為に至ったのはきわめて残念です。現実問題として中国が新疆を手放す可能性はゼロですが、何とか平和的にアプローチしてほしいものです。
 下の写真はカシュガルの町です。この町は大幅に改修され、古い街並みが失われてしまいました。これは都市の整備という面もありますが、やはり市街戦対策という要素が大きいと思います。昔ながらの迷路のような街並みは、ウイグル人が反乱を起こした時に厄介だからです。中央広場が改修されたのも、有事の際にヘリコプターなどを離着陸させたり、戦車を集結させる目的があることは容易に想像できます。そのようなことが起こらないよう祈るばかりです。
 当時の日記は、ホームページの海外ツーリング内「シルクロードの星」に詳述されています。
カシュガル


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2008年08月21日

中国のテロ(漢族とウイグル族)その1

 新疆ウイグル自治区でテロ事件が発生しました。私は2004年のシルクロード横断で、西安から北西に国道312号線を走り(一部、高速道路も走りましたが)、新疆ウイグル自治区に入りました。自治区に入る手前からすでに食事などの変化に気付きましたが、やはり自治区に入った時は感慨深かったです。新疆に入ってから、ハミ、トルファンと観光地が続き、それらの土地では外国人観光客が多く、漢民族が商売しているのも頻繁にみかけました。ウルムチからはカシュガルへ向けて南下し、テロ事件のあったクチャも通りました。下の写真の1、2枚目はクチャで撮影したものです。当時のクチャは本当に平和で、ゆっくりと休養できたのを覚えています。
 ウルムチ以降は、よりウイグル色が濃くなり、漢民族は都市部でしかみかけなくなりました。道路工事の人たち(「道班」と呼ばれる)は漢民族が比較的多くいましたが、懲役で来たと話した人が複数いました。あっけらかんと話していたので、おそらく凶悪犯などではなく、政治犯だと思いました(あくまで私の想像です)。道班には本当に世話になり、日陰や水を恵んでもらいました。彼らは町と町の間の道路をひたすらホウキで掃いていたりします。こういった人たちは工事が終わってもその土地に残ることがあり、結局は漢民族の人口比率が高まります。このような「漢化政策」により、新疆での漢民族の比率は年々高まっているそうです。一方で、農村部に目を向けると、漢民族はほとんどいません。ウイグル族が自分達の文化を守って暮らしていて、バザールの日にはロバ車の大渋滞に遭遇しました。つまり、ウイグル族が昔から住んでいて、そこに漢民族が移住してきているという構図です。
 当時の日記は、ホームページの海外ツーリング内「シルクロードの星」に詳述されています。
(その2に続く)
クチャ1クチャ2



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2008年08月15日

グルジアの事情(オセチア、アブハジア)その3

 これまで、このブログらしくない調子で、何やら難しいことを書きましたが、多くの人にカフカスの事情を知ってほしいからです。サイクリストはあえて危険なところには行きません。危険を肌で知っているからこそ、慎重になります。2004年のグルジアは南オセチアやアブハジアを除けば、安全に自転車旅行できる国だったのです。それが今は、国境を越えてやってきたロシアの戦車に蹂躙され、迎え撃つグルジア軍との戦闘で多くの民間人が犠牲になっています。しかし、オセット人やアブハズ人はロシアとグルジアの狭間で翻弄され、あまりにも無力です。今回の戦乱には明らかに、エネルギー紛争が絡んでいます。天然ガスのパイプライン。ヨーロッパは天然ガスをロシアに大きく依存しています。いくら人権重視を声高に主張しても、彼らは結局、少数民族の境遇よりも自国へのエネルギー資源の割り当てを考えて行動します。ロシアとグルジアどちらが悪いのか?などという単純なものではありません。
 4年前に滞在した町が戦場と化した映像は非常にショッキングです。現代の戦争を身近に感じました。犠牲になるのは弱者。平和というのは本当に貴重です。


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2008年08月14日

グルジアの事情(オセチア、アブハジア)その2

グルジア2 続きです。アブハジアについて。
 アブハジアはグルジア最西端の地域で、ソ連時代はリゾートとして著名でした。アブハジアとはアブハズ人の土地という意味です。1991年のグルジア独立時、アブハジアはグルジアの一地域とされ、自治権を与えられていたようですが、この頃すでに、ソ連崩壊を受けてアブハズ人とグルジア人の緊張は高まっていました。1992年にアブハジア自治政府が独立を宣言しましたが、国際的に認められませんでした。このあたりの経過は南オセチアに似ています。グルジアとアブハジアの間で戦闘が始まり、多くの難民を生んでしまいました。私がクタイシで滞在したホテルにはアブハジア難民が大量に住んでいて、廊下で夕飯を作っているおばさんからおすそ分けしてもらったり、触れ合いがありました。どの家族も父親不在だったように思います。順番が前後しますが、クタイシの二日前にゴリに滞在しました。この町はあのスターリンが生まれたところで、世界で唯一、公的に保存されているスターリンの銅像がありました。この町の中央広場は今でもよく覚えていますが、最近のニュースでは銃撃戦の舞台になっていました。グルジア領内まで侵攻するのはあきらかにロシアの過剰反応だし、軍事力で圧倒しようという大国主義には寒気を覚えます。私がゴリ郊外に野宿したのは2004年10月10日でした。あそこが戦場になるなんて。
 グルジア人は一般的にキリスト教徒(グルジア正教)というイメージがありますが、じつはイスラム化したグループもいます。彼らはラズ人と呼ばれ、独立した言語を持ち、バイリンガルのようです。ラズ人はトルコ東部にも居住し、バトゥミからトラブゾン(トルコ東部の都市)に抜けた時は、文化・民族の連続性を実感しました。このようにグルジアの民族事情は非常に複雑です。
 当時の日記は、ホームページの海外ツーリング内「シルクロードの星」に詳述されています。


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2008年08月13日

グルジアの事情(オセチア、アブハジア)その1

 2004年9月17日、シルクロード横断に挑んでいた私はトルクメニスタン北部のトルクメンバシュから、カスピ海を渡るフェリーに乗り込み、対岸のバクーに辿り着きました。アゼルバイジャンの首都であるこの街は石油バブルの香りと東側国家独特のモノクロの街並みが不思議な融合を見せていました。すでにタシケントでグルジアのビザを取得していたのですが、チハルが遊びに来るのを待つ関係で、かなり長く滞在しました。
 10月7日、ようやく国境を越えてグルジアへ入国。国境での検問は特に厳しくありませんでした。この頃のグルジアは、ソ連で外務大臣を務めたシュワルナゼが前年にグルジア大統領を辞任し、親米政権に代わったという状況でした。安全対策のため、グルジアの政情については事前に少し勉強していました。親米政権=ロシアと折り合いが悪いということです。これは他の旧ソ連諸国にもいえますが、相手がロシア人か、ソ連時代の被支配民族(たとえばグルジア人)かということは、よく把握してから深い会話をするべきです。でないと自分の立場を悪くすることがあります。さらにカフカス(コーカサスともいう)の場合、じつに多くの民族がいるので、それらの間にも支配関係や戦いの歴史があったりします。
 オセット人のうち南方に住む人たちは、グルジア人に支配されてきた歴史があり、ソ連崩壊後、グルジアの一部とされました。これが南オセチアです。一方で北オセチアは、ロシアに含まれることになりました。しかし、南オセチアはロシア連邦への加入を目指し、グルジアからの独立を主張し、ロシアは軍事的にこれを支援しました。結果、南オセチアは国際的には独立を認知されていないものの、自治州として、グルジア政府の影響力が及ばない地域となりました。・・・これが今回の軍事衝突の背景です。
 サイクリストとしては、南オセチアに用はありませんでした。南カフカスからロシアに続く「軍用道路」は観光名所でしたが、ロシア領北オセチアに抜けられないという点で、「使えない」道だったからです。チェチェンも近く、当時、ロシア軍とチェチェン軍事勢力が激戦を繰り広げており、近寄るのは危険でした。当時、グルジアの国道を走っていても特に検問も厳しくなく、アゼルバイジャンの方がよっぽど検問がきつかったですが、軍用道路にアクセスした人によれば、そちらはやはり厳重に検問していたようです。南オセチアに入れば、もはやグルジア軍・警察の力は及ばない、ということでした。おそらく境界地帯には南オセチア、グルジア双方の検問所があったのでしょう。
 当時の日記は、ホームページの海外ツーリング内「シルクロードの星」に詳述されています。
グルジア1グルジア3




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2008年07月08日

雨対策:シルクロードの場合

シルクロード_雨  雨対策は難しいです。必要そうなものを全部持っていったら、装備が重くなってしまう。どこまで装備を減らすか?
 シルクロード横断では「雨は降らないだろう」と決め付けて、MONTANE超軽量ウィンドブレーカだけを持っていきました。丸めると缶コーヒーくらいの大きさになるスグレモノですが、生地が薄く、ゴアテックスのような高い防水性はありません。最初1ヶ月はほとんど雨が降りませんでした。湿度ゼロパーセントの超乾燥世界は本当に快適。洗濯物も汗もあっという間に乾きます。
 しかし、途中からは雨が。天候のデータはここにあります。とくにグルジアでは雨に泣かされました。道路の状態が悪く、水たまりが多いので、下から跳ね上がる水も酷く、自転車も私も泥だらけになりました。まさにパンツの中までずぶ濡れです。靴はとくに防水加工のないビンディングシューズで、やはりびしょ濡れになり、冬の寒さが足に応えました。
 テントは石井スポーツのゴアライトを使用しましたが、土砂降りだと中は濡れました。フライシートもシュラフカバーもなかったので、けっこうきつかったです。結露にも悩まされました。
 もしも同じコースを行く人がいれば、きちんと雨対策をすることを勧めます。当時の私は、走りきれるか体力に自身がなく、とにかく軽量化にこだわり、快適さは二の次でした。これを読むと「辛そうだな」と思う人がいるかもしれませんが、今となっては楽しい思い出です。



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2008年01月25日

新宿でキルギスの写真展

シルクロード雑学大学の代表、長澤法隆さんから案内が届きました。
新宿でキルギスの自然を紹介する写真展が開催されます。
写真家の伏見克彦さんの写真展です。
詳しくは、ホームページhttp://www.geocities.jp/silkroad_tanken/を見てください。


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2007年06月30日

ウォッカ!

スミノフブラック
シルクロード横断で走った中央アジア(旧ソ連)では、生ぬるいウォッカを湯のみ茶碗で飲んだものです。もちろんストレート。トラックドライバー達と一気飲み大会。・・・聞いた話では、最近はロシアよりもフランスやイタリアの方が蒸溜技術が進んでいるらしく、例えばフランスのグレイグースは絶品です。洗練されていて、同じウォッカとは思えないくらい。
スミノフ・ブラックが私のお気に入りですが、これも実はロシア産ではなくアメリカ産なのですね。がんばれロシア・・・。スミノフ・ブラックはグレイグースほど上品ではなく、ガツンとくる男らしい味がします。ウォッカは過度に洗練されていない方が、ウォッカらしいといえるかもしれません。

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2007年03月25日

ユーラシア横断の旅へ

いくお さんが来月からユーラシア横断自転車旅行に出発します。
船で中国へ渡り、ポルトガルのロカ岬を目指します。
中央アジア・カフカスを通る予定だそうで、私のコースと重なります。
がんばってほしい。一路平安を願っています。
旅の様子はブログで現地速報されると思うので、
ぜひチェックしてみんなで いくお さんを応援しましょう。

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2007年03月23日

シルクロード横断の旅へ

kimさんが来月からシルクロード横断自転車旅行に出発します。
今は準備で忙しく大変でしょうが、それがうらやましくもあります。
「中国を制するものはシルクロードを制す」とは私の言葉ですが(笑)、
トイレでも食事でも、中国に適応できればあとの国は大丈夫です。
kimさんの旅が気になる方はぜひブログをのぞいてみてください。


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2007年02月20日

ニセ札大国

中国のお金の単位は「元(げん)」といいますが、中国元の紙幣は偽札が多くて有名です。銀行で両替した際に偽札をつかまされたという話を聞いたことがあります(枚数をごまかす方がメジャーなやり方でしょうが)。偽札は質感が違うようですが、精巧なつくりのものもあり、ホテルのフロントなどでは従業員が偽札探知機を用意しています。首から下げるタイプや、キーホルダー状の物もあるそうです。偽札は世界中にあるでしょうが、流通枚数ではやっぱり中国が一番ではないでしょうか。北京五輪でトラブルが多発しなければいいですが・・・。

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2007年02月19日

にせタバコ

c8c27a74.JPG シルクロード横断中にトルクメニスタンを通過しました。この国は特殊な独裁国家で原油価格が安く抑えられ、自動車のガソリンが100円で満タンになるのに驚きました。でももっと驚いたのは市場で「偽タバコ」が出回っていることです。市場には日本製タバコの偽物もたくさんありました。2004年当時ヨーロッパのタバコ1箱の値段は、イタリア500円、フランス700円、イギリス1000円くらいだったので、トルクメニスタンの激安タバコ(偽物)をヨーロッパに流す悪い奴らもいたようです。国境をくぐり抜けて隣国ウズベキスタンへ持ち込むだけでも儲かるそうです。

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2007年02月11日

日本料理店平政

7d2d3c86.JPG 日本料理 平政は、中国新疆ウイグル自治区では初の本格日本料理店で、1999年に開業しました。内陸部にあり「海からもっとも遠い日本料理店」ということです。シルクロード横断の計画段階でこの店のホームページを見つけ、ウルムチに行ったら遊びに行きますと約束していました。実際にウルムチ滞在中は非常にお世話になりました。食事も泊まるところもお世話になり、本当にありがたかったです。当時着ていたサイクリングシャツにメッセージを書いて置いてきました。まだあるのかなあ。
 現時点で生涯最高のサイクリングといえる天山山脈越えは、平政の方々と飲んでいて決めたものです。とても感謝しています。しかも、その後カシュガルで店員のYさんと再会し、常連客のOさんには日本からタイヤなど補給物資を持ってきてもらい、またしてもお世話になりました。この店を通じて本当に多くの出会いがありました。
http://ohayo-urumqi.com/hiramasa/index.htm

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2007年01月25日

自由旅行できない国トルクメニスタンを走る

ここ何日かはビザについて書きました。
自由旅行できない国をどうやって走るのか?という話題をしましたが、私のシルクロード横断の中で、トルクメニスタン走行がそれに当てはまります。
まずSTICという東京の旅行会社とメールで打ち合わせをしました。
STICがトルクメニスタンの旅行会社に頼んで、私一人のためのツアーを企画してもらいました。
ツアー参加者は私1人だけで、宿泊施設は「リーズナブルなホテルもしくはゲストハウス」で、食事は朝食・夕食付き。
自転車走行時は伴送車がつき、観光時は車で案内してもらいます。
ガイドはドライバー兼英語ガイドの方が1名→ロシア系のセルゲイという男性で英語は苦手。
トルクメンバシからバクーへ出国するフェリーは3クラスキャビンを予約済み→実際は港で苦労する
今の政治情勢からしてトルクメニスタンを走ろうという人は少ないでしょうが、検討している人は私のホームページが参考になると思います。

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2007年01月12日

キルコロフの曲みつかりました5

異国音楽館のkisaraさんに質問したら、すぐにお返事頂きました。
キルコロフのアルバム「Незнакомка」(Unknown Girl、2003年)に収録されている、Немного Жаль (Nemnogo Jal)と言う曲ではないかということ。
さっそくamazon.co.jpでCDを注文しました。
本当にありがとうございました。
すごい人がいるものですね。

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Filip Kirkorov (フィリップ・キルコーロフ)曲名教えて

2004年夏シルクロード横断中に中央アジアの国々で爆発的に流行っていた曲がありました。
日本に帰ってから探してもみつかりません。
男性が歌うバラードです。
現地の人にきいたら歌手の名はFilip Kirkorov (フィリップ・キルコーロフ)だと。
しかしそれも本当かどうか。

トルクメニスタンのレストランで行われたパーティで、
キーボードの弾き語りをしていた人がその曲をやったので録音してきました。
どなたか曲名をご存じないですか?
下のアイコンをクリックすると曲が流れます。

音楽スタート


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2007年01月07日

トルクメニスタンの結婚式



調子に乗って今日もトルクメニスタン関係の動画です。
ガイドと一緒にカフェで食事していたら、現地カップルの結婚式に出くわしました。
物資の乏しい国なので質素な式ですが、とても幸せそうでした。
中央アジアの民族衣装はとてもきれいですね。

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2007年01月06日

トルクメニスタン国営テレビ



予防接種の話題が続いて、ちょっと堅苦しいので、今日は動画を紹介します。
この動画は私がシルクロードを横断した際に、トルクメニスタンで撮影したものです。
画面右上には、先日亡くなったニヤゾフ大統領の肖像が描かれています。
まさに独裁国家。西アジアの北朝鮮と呼ばれる国です。
この国を私はガイド(監視役)付きで走りましたが、その詳細はホームページに紹介してあります。
興味がある人はぜひご覧ください。

それにしても、ニヤゾフ大統領が死んで、あの国はいったいどうなるんだろう?

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